昭和52年01月19日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世まで持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事ができる。みてる(尽きる)ということがない。」

 此処で信心すれば誰でもという所が、いよいよ神を信じて疑わないという信心だと思いますね。所謂神様を信じて疑わない、ならお道の信心を頂いて信じて疑わないということはどういう事かと言うと、一切を神愛と信じ又は感ずる事だと思うです。一切神愛これは合楽理念を根本的に言わば決定づけるものなんです。合楽理念の根本は一切を神愛と信じ、又信じさせれる信心を説き明かしてあるのです。
 ですから合楽理念を根本的に決定づけるものです。一切神愛、そういう信心が出来たら、分かったら、お徳を受けると、信心、信ずる心。そこでその一切神愛と分からせて頂く迄の信心、一つの過程と言うものがどういう風な言わば過程を辿るかと言うと。昨夜は月次祭に阿部野の先生のお話を聞いて頂きました様に、信心を深め、おかげを受け、お役に立つ、のこの三つが卍巴になって心の中に熱を帯びて来るとき、信心を深めおかげを受けなければならん。
 そしてお役に立ちたいという一念、そういう三つが卍巴になって自分の心の中に渦巻いて来る程しのもの、言うならばそれが白熱化してくる。お役に立ちたいの一念という様な信心は本当に信心が白熱化して来なければ、中々ほんなら合楽示現活動と言う風に言われますけれども、これを積極的に伝えずには置かんという様な私は心の状態だと、それにはまず信心を深めおかげを受けておらなければ人には伝える事も出来ません。信心を深めおかげを受けそしてお役に立つ。
 もう何十年間言い続けて来たことですけれども、今日程私ここの所をいよいよ頂き切る事だと、いわゆる一切神愛と言う事。だからこそ成り行きを大事にもしてきた、成り行きを又尊びもしてきた。全ての事に御の字も付けて御事柄、又は御物として頂く稽古をさせて頂いた。そういう稽古をさせて頂いて、いうなら成るほど一切が神愛だなと分かる時にです、どういう事にならねばならないかと言うとこれは肉眼的見地に立ちますと、困った事であり難儀な事であり腹の立つ様な問題である。
 それを一切神愛と受けて受けきる時に、その事に対して心の底からお礼を申し上げる心が生まれて来る。もうこの信心を極めて行き、言わば押し進めて行くと言うこと。段々信心に依って日勝り月勝りの、ならおかげを頂いて参ります。信心も段々分かって参りました、天地の道理も分かって来た、天地の御恩徳も分かって来た、信心を深めるのです。そしておかげの上にも、成るほど日勝り月勝り年勝りのおかげを頂いて参りました。所がこれまでではまだ信心と言うことにはならんのです。
 それに、その言わばおかげを受けておる神恩報謝の心というものをです、所謂合楽示現活動に参画さして貰うと言ったような信心、所謂お役に立ちたいという一念をです燃やして来る。そこから信心を深めおかげを受けるということの裏付けが出来てくる。いよいよ信心の成長が成される。信心の成長というのはそこから。そして段々分からせて頂くことはもうこれ此処に極まる。
 言うならば合楽理念をマスタ-すると言うか、それを実際の上に頂き現して行くと言うことになると本当に一切が神愛であると言うことに到達するのです。所謂困った事とか難儀な事というものは全然無くなって来るんです。又そういう信心が分かったら本当にそれは無くなって来るでしょうね。先日から、蚊取り線香のずうっとこう段々うえに小さくなって行くあのお知らせを頂いて。この始めの間は大きく渦巻きがそれに火が付いて段々燃えていくと段々小さく成っていく、その頂点が生神金光大神だと言った様なね、表現で頂いたでしょう。
 もう小さくなって来る頃にはです確かに煩わしい物も無くなって、こりゃ困ったと言ったような事も実際無くなって来る。所謂おかげの中に住む訳です。いやおかげと言うよりも神愛の中に住む訳です。所謂、有り難い勿体ないと言う事になってまいります。そこまで行く過程にです、なら肉眼的に見ると困った事であったりね、例えばね色々信心にお粗末御無礼が出来て失敗を致します、その失敗そのものもお礼の対象になるんです。
 先日、今東京に行っとります伊藤君(憲男)から手紙が来とった。末永先生が返事を出すことになっとります。もうこちらえ参りましてから、まあ言うならばお粗末ご無礼ばかりの生活を致しとりますけれども、そのお粗末ご無礼な生き方在り方に、普通は色即是空とこう申しますね、色即是色と、そういう私ですけれども合楽の信心を頂き分からせて頂いたら、その事にもお礼を申さして頂いとりますと言うて来とる。
 もう此処になる時にです、神様がそれを責めたり咎めたりしなさるのは何にも無くなってくるんです。ああ、私の様な御無礼者をと言うたら自分で自分の心が言うなら良心の呵責に苛まれる、それが又おかげを頂けない事に成ってくる。どうしても僕は合楽から離れられない、先日もお夢の中に末永先生が私の体に巻きつく様にしてその放れなさらん。そしてある外国のレストランで食事をしておるお夢を頂きました。
 研修の時に私の祈りとか、私の思いというものが、どういう形で現れるか、言わばお夢めの中にでも、私の思いがハッキリ出て来るじゃないの、と言うてお話しした事でした。だから末永先生が、一番内容が分かりそうですから、あんたがこれに対して、返事を一つ書いときなさいと言うて、その時に手紙をあちらに渡しましたがね。
 だからそういう状態から、なら信心が例えば深められた、そこから只今申します様な、心の状態が開けてきた、その心の状態にそれを裏付けするように、今度は本気でお役に立ちたいという、一念が燃えて来たときに、信心が愈々成長して来るわけです。お役に立ちたいという一念を燃やして行く。そこで私は今日からもう徹底してこの事だけに取り組ませて頂こうと思うのですけれども、一切が神愛と分かったらです。
 どういう事柄の中にも、只黙って受けていく心の中には、それこそ歯を食いしばって辛抱して行くと言った様なものじゃ無くて、それが本当に、お礼の対象になる所まで心を高めて行く事のために、愈々本気で神心にならせて頂く、精進をしなければならない、と言う事であります。例えばあの大変ここん所にあります様に、信心を深めておかげ受けた、信心を深めてという事は、信心が段々分かって来ておかげを頂いた、その頃から昨夜の御理解の中にも有りました、おかげを受けた事が、おかげ落としの元になる様な傾向が合楽にはあると言うのです。
 おかげを受けた事が、却っておかげ落としの元にする様な傾向がある。本当にあの人はおかげを頂いてから今不信心になって、あげなこっちゃもうおかげを落とすに違いはない。おかげを落としてからじゃあもう遅すぎる、と言う様な例えば見方をしておった、なら私がです、如何にもそれは信心から離れておるかの様に見えるけれどもそれも神愛の中にあるんだと見るのです。それも神様のお働きの中にあるんだと見るのです。
 ですからその事にもです、愈々信心を本当なものにしていく事の為の、言うならば一つの段階であって、お礼を申し上げる以外には無いんだ、と言う事で有ります。例えば困った難儀な事柄とか人間関係とか色々有りますよね、経済問題とかと。もうそれを、本当に願わずにはおられないから願うのですけれども、その事の私はおかげで信心が出来ますという本当にお礼も同時に言えなければ行けないと思うです。
 もうこの難儀から抜けられたらどんなに有り難い事だろうかと言うだけの心では無くて、その事のおかげで信心が出来ますという感謝の対象、お礼の対象に、一切が成らなければ駄目だと。それが一切神愛を悟った人の生き方だと言う事になります。一切が神愛、だからそういう一切が神愛を愈々確固たるものにして行く為に、愈々信心を深めおかげを受けて、お役に立ちたいの一念で有る事を、言うならば様々の難儀と感じておる時にですお役に立ちたいの一念を造っておかなければいけないと言う事になります。
 信心を深めおかげを受けて、愈々此のおかげを頂いて行くと言う事はもう限りが有りません。芯が無ければ火が灯らんと言うが、同じ芯でも小さい芯では小さい光、大きい芯なら大きな光が灯る様に、私共は愈々大きな芯を以て、おかげを頂いて行く。言うならば信心すればというそういう芯だと。そこに一切神愛とみる。そういう信心がです私はお徳を受けるのだと言う事、日勝り月勝りのおかげを頂き。年勝りのおかげを頂き、ここまでは言うなら信心を深めおかげを受けてと言う事で有るけれども。
 お役に立ちたいの一念が燃えて来る様になって初めて、言うならば一切神愛というその本当の裏付け、本当の神愛と言う事が分かって来るおかげが頂けて来る様になる。そういう一切神愛と分からせて頂けれる様な、心の状態をもって受けていくおかげと言うものはもう限りが無い。尽きると言う事がないというおかげ。しかもあの世までも持って行かれ、子孫にも残るという神徳はそういう信心から生まれて来ると言う事であります。
   どうぞ。